体が「学校」という場を欲していて。
「期限:明日23:59」
今現在、学生の多くは、オンラインで学校の授業を受講している。対面で授業を行えないということで、課題の量が尋常じゃない。毎日、こんな赤いランプが点灯中。
正直言って、もう疲れた。少し、大学という存在と距離を置くことにした。通学時は、一回90分間で完結していたが、オンラインでは、一日中頭の中が学校でいっぱいになる。
決して、課題提出をやめて仕舞えばいいという主張ではなく、一旦距離をおかなければ、狂ってしまうのではないかという学生の抱く危機感をここで記したいだけである。
いくつかやるべき課題があったけれど、「もう、きょうはいいや。」と割り切った。
そして、部屋の倉庫を物色していたところ、久しぶりに、おりがみケースが出てきた。このおりがみケース、小学3年生のころに購入してから、まだ息していたんだな。とにかく懐かしすぎた。そして、、、
今日は、課題をサボって、おりがみすることにした。
♪今日のBGM❶♪『春はまだか』ー浜田雅功
「おりがみは、心を落ち着かせる。」今日、はじめてこれに気がついた。落ち着いて、両指を注意深く動かすその動作、なぜだろう表現が正しいかわからないけれど、「懐かしい」新鮮さがそこにはあった。
わたしの人差し指と、親指は踊っていた。嬉しそうだった。
そうだよな、思い返せば、昨今の私たちが触れるものなんて、汚い画面に、汚いキーボードに、、、。指がかわいそうだ。もっと刺激のあるものを指は求めていたんだ。
そして、指先の動きと、私の脳が一体感を持ったこの感覚が、懐かしすぎた。なぜだ。わかり切っている、スマホとPCばっかり触っているからだ。私の指先の動きは、私の体へではなく、コンピュータに伝わっていくんだもんな。なんかごめんな。指先よ。
♪今日のBGM❷♪『青春国道202』ーKAN
さきほど記述した、おりがみケースは、小学3年生の頃校内で流行していた、おりがみブームにあわせて、お母さんに買ってもらった覚えがある。
このおりがみブームは、女の子たちの間から始まった。10分休憩でも、はたまた授業中にでもおりがみと女の子たちは奮闘していた。それに男子が乗っかった。初めのうちは、女の子に折り方を教わったりして、それなりクラスの仲が深まっていた。しかし、バカな男子達は、おりがみブームを変えていったのだ。
「キラキラおりがみを持つ奴がさいきょう」ーーーーそんなブームにいつの日か変わっていった。(キラキラ折り紙とは、上の写真の左側のようなおりがみのこと。すこし高め。)
本当に、思い返せば、下らないが、微笑ましい。結局、おりがみコレクターとなった男子たちの家には、おりがみの在庫が大量発生することになった。結局、捨てることも難しく、大学生になってもなお家に残っていたのだ。
♪今日のBGM❸♪『My body keeps changing my mind』ーカレン・カーペンター
おりがみブームもそうだが、とにもかくにも、小学校ってよかったよな。って課題をサボりながら考えていた。
いや違う、便利じゃなかったあの頃は、よかったよなって。考えた。
とりあえず、ブログで小学生の思い出を、覚えている限りで、回想することにした。
1、まず思い返してみると、分団登校って幸せだった。
地域によって様々だと考えられるが、防犯等を目的として、私の学区では、分団登校をしていた。これが、とにかくいい思い出なのだ。1年生で初めての登校日には、6年生の分団長の先輩が、玄関まで迎えにきてくれた。また、分団登校だから、遅刻者もいて、「おきろ〜」ってみんなで朝からマンションを駆け回って、呼びに行ったのは楽しかったな。今では考えられない。そもそもオートロックとかなんとかで、マンションには入れないし。
2、木登り・崖登り
学校が終われば、仲の良い友達と、団地内で遊んでいた。木登り・崖登りは、本当に上達した。怪我もした。トゲのある木を触ったり、崖を触ったりと、指先は刺激を受けまくっていたよな。
♪今日のBGM❹♪『NIGHT WALKER』ー松任谷由実
3、欠席の子に連絡帳を届けに、、、
これも心がなんだか温かくなる思い出だ。欠席連絡が、連絡帳による手書きっていうのが推せる。そして、その連絡帳を担任の先生から預かり、おうちまで届けに行く。つまり、学区内であれば、「〇〇くん/ちゃん」の家の場所は皆知っていたし、なんなら電話番号まで覚えていたし、お母さんの顔も覚えていたし、、今じゃ考えられないけれど、とにかく私はこの頃に社会が戻ってほしいと願っている。
連絡帳を届けに行くと、その子のお母さんから、お菓子をもらえたり、女の子なら、次の日ありがとうって感謝してもらえるし、それを狙っていた男子はたくさんいた。
4、自動販売機のポイントカード
DYDOの自販機ってポイントカードが発券されるの、知っていますか笑?
それはともかくとして、あの頃の私が接する機械なんてのは、近くの自動販売機しかなかった。帰り道に、ともだちと、発券されて取り忘れているポイントカード(新規発行カードで必ず発行されるからわるいことしているわけではないよ笑)がないかチェックするのが日課だった。そして、取り忘れポイントカードをコレクションするのだ。絶対必要ないし、ジュース一本すら購入できない財力のくせして、カードだけ集めてどうするのだか。いやでも、そんな必要ないものにも、面白さを見出して、自らの力で楽しさをうみだそうとするその力、大切なんだ。今の私にはできていない。つまり、小学生に負けていると言ってもいい。
5、恋愛、ラブレター
相合傘が書かれ、付き合っていることをクラス中でからかわれたり、あの頃は迷惑でしかなかっただろうけれど、今思い返してみれば、最高じゃないかあ。月一くらいで、こっそりと「おどうぐばこ」に届く手紙。これは一生ものだ。永久保存だ。
♪今日のBGM❺♪『夕暮れ沿い』ーOfficial髭男dism
結局何を伝えたいのか。
便利じゃないあの頃は、自ら刺激を求め、自ら創造し、自らの時間を、自らで楽しもうと必死だった。
何もかも便利になった今、そしてこの感染症が流行する昨今においては、便利なツールに恩恵を受けていることは否めない。ただ、あまりにも便利すぎて、人間辞めかけていた。危ない。
今は、学校という場を思い返すいい期間かもしれない。ただ授業をして、いい点とって、おわる場ではないことを痛感した。様々な雑音が入り混じり、つねにライブの状況が保たれ、相互間で理解と緊張感があって、学校だ。良い人も、悪い人もいて、うまく調整しあって、コミュニティーを形成していく場でもあった。このままだと、ただ課題に応答する場としての機能しかもたないことになってしまう。真面目に期限内に提出する人にだけが、個人的に評価という形で良い思いをするだけの場に変容することに危機感を持ちたい。
かと言って、まだ、気が緩めない中で、これからまたもとの形に戻すのは難しい。ただ、少し体を休めて、距離を置く必要性は大いにあるだろう。そして、暇だからと言って、SNS、ネットに依存する体になるのは、私はやめにしたい。あまりにも刺激がない毎日を送ることとなってしまう。人間の作る楽しさの限界を容易に超えて、SNSや、ネットは楽しさを与えてくれる。しかし、誰かに作ってもらった楽しさで生きるのは、つまらないなって気付いた。完全にそいうった楽しみを遮断することは、また閉鎖的でもあるから、避けるべきではあるけれどね。
おっと、課題の期限が迫ってきたようだ。私にとっての楽しみの一つである、ブログという創作活動を今日はここまでとして、楽しんで、課題に取り組むとするか。
お読みいただきありがとうございました。今日のBGMは私のおすすめ曲です〜。
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コロナよりも恐ろしい病
こちらのニュース。
https://www.google.co.jp/amp/s/www.asahi.com/amp/articles/ASN4R3S2SN4NOHGB018.html
テレビをつければ、ウイルスの話題ばかり。そんな中で、気づかれないまま過ぎて行ってしまうのは許せないニュースを紹介します。
事件概要は、サイトの通りです。
ただ、ただ悲しいだけの事件です。
言うまでもなく、少年らは悪い。しっかりと然るべき罰を受けてほしいです。
でも、それだけでなく、この事件は今の世の中に蔓延する恐ろしすぎる病を映し出している気が私はしてしまう。
《優生思想が垣間見られる》
この社会では、お金がないと生きていけません。お金を得るには働かなくては(誰かの役に立たなくては)なりません。当たり前ね。
この社会では、たくさんお金を所持する者、あまりお金を得られない者が存在します。
人々は出来るだけお金が得られるような人物になりたいと思うようになる。
ここまではいいでしょう。まぁ、頷ける。
ここで、自分に聞いてみよう。
「お金がない人は、存在する価値がないのか?」
この問いに対して、存在する価値ないって答える方はブラウザバックでお願いしたいですね。よろしくです笑
いや、でも言われないだけで、社会という大きな黒い塊から、「存在価値ないよ」って言われてる気もするんだよな。
被害に遭った男性は、女性とともに「支え合って」、橋の下で、テントの中で、日々を生きていたという。雨の中でも、アルミ缶拾いの仕事へ出かけ、女性を助け、子猫の餌まで調達し、男性なりの毎日を過ごしていた。
素晴らしすぎる。尊敬する。泣けてくる。こんな自宅待機でスマホと睨めっこしてる私なんかよりも尊い生だ。
家に帰れば、ご飯が出てきて、明かりがあって、大学に通わせてもらって、友人もいて、間違いなく明日も平凡に暮らせるだろうという確信があった少年たちからしたら、この男性の暮らしは想像及ばないのかもしれない。
石を投げるという行為からは、明らかにこの男性の暮らしを軽蔑していたとしか考えられない。
なんの苦労もなく(いや、その苦労は誰かが負っているんだけどね)、手にしたその地位からは分からないんだろうね。
でもね、この少年だけじゃないですよ。残念だけど。見て見ぬ振りしていた私たちも同罪かもね。
全て自己責任で片付けられるだろうか。お金ある人だけ生き残ればいいのか。そんな社会はどこへ向かうのか。なにを目指しているのだろうか。
そのお金、もっと良い使い道あるんじゃない?
その頭の良さ、もっと良い使い道あるんじゃない?
その社会的地位、もっと良い使い道あるんじゃない?
「〇〇さんって、お金はあるけれど、大切なものを持ってないよね。」
おうちにいる時間を使って、いま私たちは考え直す時かもしれない。少年らだけの問題じゃないわ。この病、ワクチンはないけれど、確実に効く処方箋はありそう。発症してないかは個人で検査できますね。
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みんな「いい人」になりたい。
こんにちは。しばらく沖縄にお出かけしていました。沖縄と言っても、観光コースではなく、7日間ずっと戦争と平和をテーマとして考え続けていたのです。学生のボランティアとして、沖縄戦と向き合うべく、東京から向かったのです。
様々な人とお話しすることができた。答えのない問いだからこそ、話していてとても楽しかった。ためになった。話題が話題だからこそ、腹を割ってお話しすることができたんです。
その中で、「〇〇(筆者)って、視点が他の人と違って、話していて面白いよね。」と言われた。なるほど、そうなのか?そうなのか?(2回目)
自分にとって「平和」とはどのような状態か?
「心に余裕があって、他の誰かの幸せを願える状態のこと。」
そんな答えを持ち帰ってきた。
_____________________
みんな「いい人」になりたい。
皆さんは「素直な人」になりたいですか?なりたいって思う人が多いと思う。でも、それはなぜだ?
なんの隠し事もなく、自分の素のままに生きることになぜ憧れるのか?
自分自身振り返れば、日々をちょっとずる賢く、戦略立てて生きているような一面もある。それを「腹黒い」の一言で済ませて仕舞えば、それまでなんだけれど。
そんな話をボランティア最終日の夜にしていたんだよな。いかに腹を割って距離感を縮められたかが伝わるだろう。
その中で、話していって、自分の中で結論づいたことがあった。それは、どんな生き方であっても、皆「いい人」を目指した生き方をしているんだろうな。ということ。
「いい人」になりたい。そのための方法がそれぞれ違うだけなんだろう。どちらかといえば、ずる賢く・戦略立てて日々を生きてしまう後者の方は、自分を責め立ててしまう時もあるかもしれないけれど、どれも皆目指している方向が同じと考えたら、少しは気が楽になるのではないだろうか。
宣言します、私は「いい人」になりたい。
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「みんな」ありがとう!は本当か?
最近、SNSでよく見かけませんか?「みんな」ありがとー!「みんな」大好きー!みたいな投稿。
別に不自然に思わないならいいんだけれど、自分はなんだか違和感というか、ぎこちなさを覚えるんです。それを投稿している大部分の人たち、つまり、「みんな」大好きー!と言ってたあの子は、明日も明後日も「みんな」に連絡とってご飯行ったりしないじゃないですか。何がぎこちないかって、よくそんなにすぐ「みんな」が好きになれるな、って思うからです。
「いい人」になりたい。おそらくみんな。「みんな」を好きになりたい。そうなんです。
「みんな」大好き。その一言に、投稿者の一抹の不安を垣間見ることは出来ませんか?
「いい人」を目指すものとしては、極力嫌われたくないし、嫌いたくないんです。
だから、「みんな」と表現しているんじゃない、?
「〇〇ちゃん、好きだよ」という投稿は、〇〇ちゃん以外を突き放す投稿になるのかもしれない。
実際自分自身がその「みんな」に入っていたら、少し嬉しいですよね。「あぁ、感謝してくれているんだー。」程度の喜びなんだけれど。
でも、私はずっと思っていたことをここで記しておきたいんだ。
「誰か1人を愛せないようなら、みんなは愛せないんだよ。」
って。
まだ世界は平和な状態だとは言えないだろう。だってまだ人類皆みんなを愛せてないもん。もしかすると、インスタに出没する「みんな」だいすき投稿者は、人類の先端をゆく人々なのかも?自分、置いていかれてる??
でもとにかく、誰か1人が好きになれて、そこから多くの他人を好きになれるんだと思う。この順序は間違ってないと自分で勝手に思ってるんだよ。それはね、、、、。
_____________________
青春時代、aikoを聴いて育ったという謎のプライド
ボランティアから帰ったら、aikoさんがザブスクを解禁していました。即登録ですよね。はい。このブログで何度もお伝えしている通り、私はaikoファンです。そうです。
aikoさんこれまでの曲414曲すべてが聴けるようになったのだそう。
私は、ファンとして414曲聴いているけれど、その99.9%はいつもそばにいる「あなた」を題材にした音楽なんですよ。
私自身、aikoを「ラブソングの女王」とかって称号づけるのは好きじゃない。そもそもラブソングじゃないんよ。「あいのうた」なのよ。わかってほしい、この違い。
私はそんな「あいのうた」を、中学・高校という大事な時期にずっと聴いていました。すごく昔のアーティストってわけではないけれどさ、aikoを聴いている男子はほとんど学校にいなかったよ。
でも、そんな青春時代にaikoを聴いていたのは、ちょっぴり自分を誇れる一部分でもあるんです。
だって、誰か1人を好きになることの苦しみ、楽しみを教えてもらっていたのだから。aikoはずっと、誰か特定の1人を好きになることを題材にしているんです。「世界中のみんながだいすき〜」だなんて歌詞は見たことないよ。なんなら、「世界中敵に回しても、あなたと眠る夢を見ていたい」って歌詞書くからねっ!
そんな、1人を大切にすることの大切さに気づかせてくれる、aikoの414曲に、今を生きる「みんな」大好き系の"現代っ子"は、容易にアクセスできるようになったのだ。これは喜ばしい。
恋愛離れ?おいおい。現代っ子よ、順番が逆だ。aikoを聴いて出直そう。別にさ、恋愛じゃなくたっていいんよ。誰にも譲れないものを見つけるのもいいんだよ。誰にも譲れない人・ものを守る辛さを覚えようよ。現実から逃れちゃダメだ。頑張って「いい人」になりたい。そうなんだよ。そうやって、辛さを覚えていくうちに、いつのまにか「いい人」になれているもんだと思うんよ。どうかね?
「みんな」を愛せないで、1人で模索して頑張っている人を、「ぼっち」なんて言葉で片付けないで。
明日も私は、「いい人」を目指して、生きますよ。誰にも譲れない1人・ものを愛して、探して、、、。
そうしているうちに、心に余裕が生まれて、他の大勢の幸せを願えるんだよ。
最後にこの話のオチ
自分も、SNSで「みんな」との楽しそうな写真を投稿する、れっきとした大学生。そう、"現代っ子"なんだ。
自分への戒めのような記事になったな。
コメント・ブクマ・読者登録お待ちしております。
電車の中でマックを食べたいって思った。
ボーッと道を歩いていると
後ろから誰かに追い越される。ボーッとしていた自分が悪いのにもかかわらず、「すみません」と謝られる。
ただ座っていただけなのに
座席の前に誰かが来ると、「すみません」と言ってわざわざ立つ。
「すみません」をI'm sorry.と英訳するのは誤りなのだろうか。
「どなたか質問はございませんか?」
ここで手を挙げて質問した人を見たことがない。探せば探すほど質問だらけな気もするのに、な。
「どうぞお座りください」
「いいえ、結構ですよ、どうもありがとう」よくある一コマ。「よし、座るわ」なんてやりとりは一度も見たことがない。
思い返せば、私たちは見えない何かに謝罪を続け、手にしたチャンスを自ら拒んでいるのか。
心の余裕さはどこから生まれたからのだろう
ここぞとないチャンスを他人に受け渡し、自分は目立たぬように生きていくこと。それをできる人は心に余裕がないとできないだろう。誰かを許して、誰かの幸せを願うことができる人。。。
心に余裕がない人に出会う。なぜこの人に余裕さがないのかと考えてしまう。複雑に入り組んだこと社会じゃそうなってしまうのか、と。
ほんのちっちゃなミスが許せない"お客様"、いつまでも一人芝居を頑張る方々。
心に余裕がない人を見るたびに私たちは「呆れ」という感情を持つのではなおだろうか。
「自分の幸せがあってこその、他人の幸せを願えるのだろ」
確かにそうである。
ふと思い返せば、なんでそんなにもちっぽけなことで自分は怒っていたのだろう。そんなことばかりな気がしてならないんだよなぁ。
電車の中で飲食することを鉄道会社が認めているかいないかはともかくとして、
昼下がりの3両編成の電車で堂々とマックを食べている女の子を目にした時に考えたのがこの記事である。
これは朝ラッシュの通勤電車などでは絶対にできない行為だ。やってみようものなら、社会が存在を消してくるに違いない。
ただ、その美味しそうに食べる女の子と、車内に漂うマック臭はこの上ない素晴らしいシチュエーションだと私は思った。
社会は厳しくなり過ぎである。「社会には様々な考えを持っている人がいて〜共に生きる社会を創りましょう〜」と、特に深い考えもなく口にするだけしておいて、単調な集団に従う「良質な」個人の量産を目指し始めていないか。
あの場で、彼女に対して冷たい眼差しを向けるのではなく、温かく見て見ぬふり(いい意味での無視)をできた乗客。そして、検札で通る際、「すみません」と言って彼女の前を通ったら車掌さん。まだまだ大丈夫だ、と思った。
「他のお客様のご迷惑とならぬよう、ご配慮をお願い致します。」なんら間違ってはいないけれどもね。
いつか時が経てば、なんだよって笑ってしまうことばかりなんだ。どうせいつかは無くなってしまう。そんな心の余裕さを持っていたい。
こちらの記事でゆっくりどうぞ。
京急の踏切衝突事故についてファンが分析した。
5日昼ごろ、京急線神奈川新町駅近くの踏切にて電車がトラックと衝突し、列車が脱線するという悲惨な事件が起きました。車内にいた乗客、乗務員に犠牲者はいなかったものの、トラック運転手の方は亡くなられたそうです。
神奈川新町駅は横浜駅から数駅離れた駅です。あまり馴染みのない方が多い駅かと思われます。私は京急をこよなく愛する一人だとこのブログにおいて公言していた通り、この神奈川新町駅は数えきれないほど訪れています。
私はこの事件をツイッターで知りました。この時旅行中で名古屋付近にいた私は、写真を見てはいてもたってもいられなかった。「あの京急が!?」と、信じられなかった。
私は京急の社員でも、鉄道専門家でもない。ただの京急好きの大学生です。ただ、一般の方のなかでは京急に詳しい自信がある。そこそこの正しいコメントができる自信がある。
そこで今回、ファンとしてこの事件を一から解明し、ファンとしての解決策を見出したい。決して、ファンだからといって、どちらかを擁護するつもりもない。客観的証拠をもとに考えていきたいと思う。
事故のあった神奈川新町〜子安間について
※緑の丸は踏切障害検知装置の設置場所
私はこの区間は何度も乗車している。
ここで一つしるしておきたいこと。
この区間は、意外にも見通しが悪い。
神奈川新町駅の隣、子安駅を出発すると、緩やかなカーブが続く。そして、カーブが終わると隣には新町車庫が見え、多くの線路が出てくる。また、近くには跨線橋と多数の信号で溢れ、ただの直線に見えても、非常に見通しの悪い区間だと言える。
そして、ここはかなりのスピードで電車が通過して行く区間でもある。
品川駅を起点として、子安駅は19キロ300メートル、神奈川新町駅は19キロ946メートル。つまり、駅間は646メートルと、鉄道にしてはかなり短い区間である。
事件はどのようにして起こったのか?
客観的事実をまとめておくと
・事件発生時刻は5日午前11時43分
・(定時運行であれば)次の横浜駅には11時45分着予定
・神奈川新町2番線通過後にトラックと衝突
・1両目2両目は大きく傾き、3両目は脱線。
・トラックは左折を試みるも、通行禁止によりバックで戻ろうとするため、京急社員へバック操作を見ていて欲しいと頼む。
・京急社員は「左折はできない」とだけ伝えた。
・トラックは左折不可能だと知ると、道路標識を倒しながら右折し、踏切内へ(その後立ち往生するも、直進)
・踏切、踏切障害検知、非常停止ボタンは正常に動作。
・電車の車体性能には異常なし
これらを考慮し、推測ではあるものの、もっとも考えられる事件経過が以下の通りである。
◎
①事件が起きた列車1088SH快特三崎口行きは、11:38定時で京急川崎駅を発車。
↓
②八丁畷、鶴見市場、京急鶴見、花月園前、生麦、京急新子安、子安と通過
↓
③子安通過時には最高速度120km/h程度は出ていたと考えられる。
そして、この頃にはトラックは右折。
加えて、遮断機が下りる。
※遮断機は下りてから30秒後に列車が通過する設計のため、子安通過時には遮断機は下りたと考えられる。
↓
④ 電車の運転手、一つ目の踏切障害検知が作動していることを知る(子安駅構内)
おそらく、この時はブレーキをかけなかったと思われる。(これについては以下に説明あり)
↓
⑤子安のカーブを抜けたところで、二つ目の踏切障害検知作動と、非常停止ボタン作動を確認し、警笛を鳴らし、常用ブレーキをかけた。この時、トラックは神奈川新町3、4番線付近線路上にいたと考えられる。そのため、運転手にはトラックの姿があまり見えていなかったと考えられる。(事故した電車は2番線を走行していたため)
↓
⑥電車が駅に入ろうとする手前でトラック運転手がとにかく踏切を出ようと直進する。ようやくここでトラックの存在に気がついた気づいた運転手は、非常ブレーキをかけた。
↓
⑦間に合わず、そのままトラックの荷台に衝突。トラックの直進が間に合わなかった。電車のブレーキが間に合わなかった。
(この推測ならばおそらくおよそ60km/hで衝突したと考えるのが妥当だろう。多くの報道で伝えられた最高速度120km/hでの衝突だとしたら、脱線・横転・犠牲者多数になっていただろう。※調査により、衝突前に非常ブレーキを運転士がかけていたことがわかっている。)
これがもっとも納得のいく、事件までの推移だと思う。
★追加情報
・神奈川新町駅は優等列車の退避施設を設けているため、4番線まで線路がある。この日も定時運行であれば、1番線には先に普通電車の金沢文庫行き列車が停車しており、その運転士・車掌はホーム整理をしていたと思われる。そのため、踏切の異常に気づき、運転手又は車掌が非常停止ボタンを押したと考えられる。
・ニュースでも報道されている通り、最高速度で運行していたならば、子安構内で非常ブレーキをかけていれば、踏切手前で止まれるほどの性能を持ち合わせた車両であった。
ブレーキをかけるのが遅かったのか?何故間に合わなかった?何故自動ブレーキを採用していないのか?について
ここにしっかりと記しておきたい。
電車は直ぐには止まれない。
ということ。
ボタン一つ押したらすぐに止まるのは幻想ですよ。
一番の論点は④において、非常ブレーキをかけれたのかどうか。テレビで専門家の方が仰っていた通り、④(子安構内)にて非常ブレーキをかけていれば、最高速度であっても踏切前に停車することは可能であった。
結果としては衝突していることから、やはりブレーキが少々遅かったことは認めざるを得ない。では、どうして遅れたのか?
最大の要因として、京急が運転士という人間の裁量に安全面を委ねすぎていた点だと私は考える。報道されている通り、非常停止ボタンをホーム上で押すと、多くの鉄道会社では自動的に列車が停止するそうだが、京急では通報が届き、運転士の判断でブレーキをかけることとなっていたそうです。
京急は、信号操作などを人間の手によって操作している。これは全国の鉄道会社でも稀な方である。これは、機械に任せるよりも、人間の手によって操作した方が事故時などで柔軟に対応出来るという考えに基づくものである。「人間が機械に動かされる」のではなく、「人間が機械を動かす」というシステムを取り入れている。実際のところ、京急は遅れが発生しても、すぐに回復する。沿線の方々から多くの信頼を獲得していた。
しかし、人間はエラーを起こすもの。実際のところ、人間の手によって作業すると早いこともある。そういった点で、今回の事件を踏まえ、機械に任せる作業、人間がやる作業の分担について深く考えていく必要性を私は感じた。
非常ブレーキを即座にかけられなかった理由としては、やはり、見通しの悪さが最もな要因だろう。いくら踏切障害検知が作動していたとしても、当該の踏切が見えない以上とっさにブラーキをかける判断には至らないと思う。踏切障害検知は非常に繊細で、少しの手や足がはみ出ているだけでも作動する。そのため、踏切遮断間際の横断であっても作動する。京急は踏切が非常に多い鉄道であることに加え、開かずの踏切も多い。遮断間際の危険な横断は少なからずあり、踏切障害検知が作動しているのは私も何度か見ている。今回も運転士は、1度目の踏切障害検知の作動を確認し、2度目の踏切障害検知の動作と踏切の状況を確認してからブレーキの有無を判断するつもりであったのだと考える。
しかし、先程も述べた通り、おそらく、2度目の踏切障害検知ではまだトラックは直進できていなかったと推測される。(2番線線路上にはいなかった)その為、運転士はとっさに非常ブレーキをかけるに至らなかったのだろう。
そして、何故京急は自動ブレーキを採用していなかったのか?という点について。京急はおそらく、非常停止ボタンを受信し、自動的にブレーキをかけるというシステムの存在は知っていたはずだ。それでも敢えて導入していなかった理由をファンとして考えてみた。
まず、京急線という路線が特殊であること。
もともと路面電車が起源であったことから、非常に駅間が短い。その駅間にも何個も踏切がありる。そんな中でも高速運転を行っている。また、北は京成線の成田空港、南は三浦半島三崎口まで相互直通運転を行っていることから、少しの遅れが大幅に響くという特徴があることが挙げられる。
これらの点から、ボタンで一斉に列車を停止させるよりも、部分部分で人の裁量によって異常に対応した方が効率がいいという考えがあったと考える。実際のところ、非常停止ボタンで全列車を停車させた遅れは終電までずっと響くことが多い。ここで付け足しておくが、京急は決して安全対策を怠っていたわけではない と考える。自動ブレーキを採用しないなりの対策はしていた(以下参照)
京急だから被害を最小限に抑えられた
トラックと衝突したにもかかわらず、列車は傾いて脱線するにとどまり、横転には至らなかった。
これは京急の車両の特徴に起因する。それは、京急の列車の先頭車両は非常に重く作られているということである。
簡単な話、プラレールを思い出して欲しい。プラレールを動かすための単2電池を入れるのは2両目や3両目の車両でしたか?違う。皆先頭の車両だったと思われる。そうでないと、列車が安定しないから。
これは一見当たり前のように見えるが、京急以外の多くの鉄道会社は、車両検査における効率重視から、先頭車両は重くしていない。(モーターを積んでいない)
またそれ以外にも、車体が高運転台であったこと、防護壁があったこと、衝撃吸収可能な全面構造であったこと...など、京急ならではの安全対策によって、被害を最小限に抑えられた。
まとめると
トラック運転手の過失なのか、それとも鉄道会社の安全対策に関わる問題なのか、、、。
トラック運転手も当時見知らぬ狭い道に入り込んでしまい、とにかく気が気でなかっただろう。電車の運転手も踏切に内に12tトラックがいるとは考えも及ばなかっただろう。決して京急が安全対策を怠っていたわけでは無いと思う。
この事故から学べることとそれに対する解決策二つあると考える。
まず一つとして、京急は異常を察知した際、完全停車が可能な性能にすること。そして、列車に異常を知らせる装置があることを乗客にまで知らせること。
二つ目として、鉄道の安全対策について地域の方々の意見も考慮することだと考える。今回の事故は正直なところ、「トラック進入禁止」との表示があれば防げた。鉄道会社は道路標識までもは把握してなかったのだろう。
早い、あんしんの京急電車。また乗りたい、会いに行きたい。
#がんばれ京急
今だからこそ、KAN『世界でいちばん好きな人』を聴こう
今日は何についての記事を書こうかなぁと、考えていた時。。。。
「わぁ!揺れてる!」
怖いよ、本当に。忘れてた頃にやってくるよな。
ある日突然無にされるのなんて、、、最悪だ。。。
ただいまバイト終わってその帰り道。働いたなぁって日は気持ちがいい。
そしておもむろにイヤホンを取り出し...
______________________
すげぇ曲を見つけたなぁって。
紹介させていただくのは、KANさんの
『世界でいちばん好きな人』 です。
2019年8月の第1週。いま、ぴったりだと思う。そして、「あっ」ってなる。
歌詞は載せられないけれど、魅力が伝わったら、いいな。
______________________
この国が平和なまま続いて行くとは限らない。
これを言い切るのは相当な考えがないと書けないと、素人ながらに思う。
もっとすごいのは、
「まぁ、平和なまま続かないからこそ、今あるふつうの日々を大切に生きよう」と。
いまこの記事は深夜1時を回る頃に執筆しているわけですが、きっと、私は、明日も"ふつう"の日々になるだろうと信じていますよ。というか、それが当たり前すぎて、その他の考えに至らない。
でも、"ふつう"が永遠に続くのだとすると、それはそれで"ふつう"を大切にできなさそう。"ふつう"が"まさか"に変わる日が来るかもしれないから、"ふつう"を大切にできるのだろう。
"まさか"になってしまう理由...
______________________
時に意識をぶつけ合って、食い違う。
これは見透かされてるな。
ここでいかに"ふつう"であることが難しいのか、知るわけである。
でも、、、よくよく考えてみると
______________________
ぼくら誰一人として"まさか"を求めていないんだよな。
ふつうが欲しいけれど、ふつうばかりでは、ふつうを愛せない。だから、まさかを準備してしまうけれど、本心、まさかなんて求めてない。
「せめて互いを許しあって生きよう」
そう、締めくくられるわけだが、
その言葉には少々の諦めがあるのではないかと、筆者は考える。
これから先全てを諦め、生きて行くことが答え?そんなわけないじゃん。
→そもそも答えなんてなかった
↓
だからって、モノが答えを提示するのを待つのが正しいのですか?
______________________
負けるな、人間
このわけわからないを受け入れなくちゃならない。
この「わけわからない」に立ち向かえるのは、人間しかいないはず。
意思をぶつける誰かはなぜ自分が意思をぶつけたいのかもわかっていない。
人間皆思い描くふつうの毎日を実現させ、そこで一番好きな誰かを愛してゆくためには
せめて互いを許すこと。だとは言い切れないのが現実。
ふつうの日々を過ごすためには、一番好きな誰かに好きだと言い切ること、これは確実なんだと。
別に平和主義者的論調とかじゃなくってさ、誰しもが気づいていて、気づいていないことが歌詞になってる名曲じゃないかな、と思う。
考えさせられる曲だー。。。
ドキュメント72時間を週4で観てるかのような。
ドキュメント72時間という番組ご存知ですか?先週あたりに観て、、なんだか心が軽くなったような気分になれた。
ドキュメンタリー番組ってすごい好き。好きっていう表現あってるかな?ドラマとかはほとんど見ないんだよなぁ。
昨日の記事で「バイトが楽しい」みたいな記事を書いたのだけれど、その理由の一つ、、、
「さまざまな ひと を知れるから。」
である。
某コンビニで週4回働かせて頂いているのですが、毎日さまざまな方と接する。
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きっと何かの想いを持って来ている
ただのコンビニ。そこらのコンビニ。どこにでもあるコンビニ。
その程度だけれど、きっと、なんとも思わなく来店されているはずだけれど。。
でも、顔とカゴの中身で「なにか」感じるものはある。
・マスクをしてビタミン剤とポカリスエットを購入される方
→→あぁ、体調崩されているのかなぁ。季節の変わり目だしなぁ。
・おにぎりとパンを大量購入される方
→→これから近くで会議でもあるのかな?買い出しお疲れ様です。
・いつものタクシーの運転手さんはカップラーメンを買っていく
→→お疲れ様です。夜遅いのにすごいなぁ。
・ビールと唐揚げ サラリーマン
→→お疲れさまです!最高の夜を★
・車イスで来店される方とその介護のお母様
→→店内狭くて申し訳ないです。
・無言で2Lのお水を買って帰られる方
→→これからなにがあるのだろう?
・いつものおばさん
→→小さい袋とおしぼり必須!!
・カッチョいい外国人
→→拙い英語で「Thank you!!」(明るく返してくれる!)
・ライブ帰りでテンション高めな女性グループ
→→よかったねぇ。。誰のライブだろう?ライブ終わりの人間は何故こうも幸せそうなのだろう。
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あの番組のようにはならないけれど...
上のはほんの一例です。やっぱりすこしこちらが手こずっていると「早くして!」とか言われてしまうこともある。皆が皆いい人でもないんだよね。
でも、なんだかイライラして急かしてくるあのお客さんも、いつも「ありがとう」と言ってくれるあのお客さんも、、、きっとその日誰にもいえない「なにか」があったんだろうな、と。
何故こうも他人のプライベートに"一切"立ち入れない世の中なのだろう。
あの番組を見ていて思うこと
「みんなお話聞いて欲しいんじゃないの?」
必ず誰しも、誰にも打ち明けられないことがある。でも、誰かに聞いて欲しいという気持ちも少なからずあるはずだ。
あの番組を観て、なんだか心が軽くなるのって、画面の向こうに映る「誰か」が、自分のように見えるからじゃないのか?
皆仕事も違うし、学校も違うし、収入も違えば、家族構成も違う、、、、、、、、
皆「バラバラ」な世の中だけれどさ、
「根本は皆同じなような気がするよ。」
コンビニ店員からのつぶやきでした。ありがとう。
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