電車の中でマックを食べたいって思った。
ボーッと道を歩いていると
後ろから誰かに追い越される。ボーッとしていた自分が悪いのにもかかわらず、「すみません」と謝られる。
ただ座っていただけなのに
座席の前に誰かが来ると、「すみません」と言ってわざわざ立つ。
「すみません」をI'm sorry.と英訳するのは誤りなのだろうか。
「どなたか質問はございませんか?」
ここで手を挙げて質問した人を見たことがない。探せば探すほど質問だらけな気もするのに、な。
「どうぞお座りください」
「いいえ、結構ですよ、どうもありがとう」よくある一コマ。「よし、座るわ」なんてやりとりは一度も見たことがない。
思い返せば、私たちは見えない何かに謝罪を続け、手にしたチャンスを自ら拒んでいるのか。
心の余裕さはどこから生まれたからのだろう
ここぞとないチャンスを他人に受け渡し、自分は目立たぬように生きていくこと。それをできる人は心に余裕がないとできないだろう。誰かを許して、誰かの幸せを願うことができる人。。。
心に余裕がない人に出会う。なぜこの人に余裕さがないのかと考えてしまう。複雑に入り組んだこと社会じゃそうなってしまうのか、と。
ほんのちっちゃなミスが許せない"お客様"、いつまでも一人芝居を頑張る方々。
心に余裕がない人を見るたびに私たちは「呆れ」という感情を持つのではなおだろうか。
「自分の幸せがあってこその、他人の幸せを願えるのだろ」
確かにそうである。
ふと思い返せば、なんでそんなにもちっぽけなことで自分は怒っていたのだろう。そんなことばかりな気がしてならないんだよなぁ。
電車の中で飲食することを鉄道会社が認めているかいないかはともかくとして、
昼下がりの3両編成の電車で堂々とマックを食べている女の子を目にした時に考えたのがこの記事である。
これは朝ラッシュの通勤電車などでは絶対にできない行為だ。やってみようものなら、社会が存在を消してくるに違いない。
ただ、その美味しそうに食べる女の子と、車内に漂うマック臭はこの上ない素晴らしいシチュエーションだと私は思った。
社会は厳しくなり過ぎである。「社会には様々な考えを持っている人がいて〜共に生きる社会を創りましょう〜」と、特に深い考えもなく口にするだけしておいて、単調な集団に従う「良質な」個人の量産を目指し始めていないか。
あの場で、彼女に対して冷たい眼差しを向けるのではなく、温かく見て見ぬふり(いい意味での無視)をできた乗客。そして、検札で通る際、「すみません」と言って彼女の前を通ったら車掌さん。まだまだ大丈夫だ、と思った。
「他のお客様のご迷惑とならぬよう、ご配慮をお願い致します。」なんら間違ってはいないけれどもね。
いつか時が経てば、なんだよって笑ってしまうことばかりなんだ。どうせいつかは無くなってしまう。そんな心の余裕さを持っていたい。
こちらの記事でゆっくりどうぞ。