たそがれダイアリー

京急とaikoと柴田淳とZARDとちょっとのエッセイ

「一回ミスったらGAMEOVER」の社会で...だれが生きづらくさせた?

 なぜ?まさか?と、そんな人でも命を自ら絶っていく、そんな社会だ。

 一見、日々を謳歌していると思われるような人でも、心を叩くと悲しい音がする。そんな人間で溢れかえった社会なのかもしれない。

 1日三食ご飯を食べることができて、四六時中灯が灯り、水に恵まれて、容易に会いたい人に会えて、、、そんな恵まれた社会なのにもかかわらず、どうして、そんなにも生きづらい?

 

 ご飯が食べたくて、食料を探し求めに行く必要もない。水が飲みたくて、川までいく必要もない。会いたい人を探し続ける必要もない。

 そんな社会で生きる私たちは、次に何を求めて生きているのだろうか。もう、何も求めるものなんてないじゃないか。そう、もう私たちはこれ以上求めるものはないのだ。私はそう断言したい。そして、このことに、多くの人が、無意識にも気がついてしまっているのだ。

 ウイルスにも勝てない、水害にも勝てない、地震にも勝てない、それが私たちなのだ。歴史の上でも、私たちは、そんな自然を相手に戦ったことはないから、つまり私たちは、自然に降伏していると言ってもいいであろう。

 だからこそ、私たちは、謙虚に、もう求めるものはないのだから、日々ご飯が食べられて、明かりが灯り、好きな人がそばにいる、そんな生活をこんなにも素晴らしい生活を、感謝して生きているだけでいいのだ。加えて、そんな生活を、すべての人が享受できることを、願うだけなのだ。

 

 求めるものがなくなった、私たちは、恐ろしい生命体に変容しようとしている。

 求めるものがなくなった今、私たちは、隣人を許すことができなくなった。

 自らにとって、不都合な現実を突きつけられることが、もはや生きることを表していたのにもかかわらず、それが今の世の中で起きることが、非常に稀なのだ。だからこそ、自分にとって、、不都合な現実を突き付けたり、自らの価値観に合わなかったり、周りと違うことをする人々が、許せなくなった。

 もし明日、電力会社が休みたいと、電気が通らなくなったら?

 もし明日、お母さんが、ご飯を作ってくれなかったら?

 非常に、残念ではあるが、今の世の中では、かなりの人が、電力会社をSNS叩き上げたり、母親を殺傷する事件だとか、、、予想できてしまうのは、私だけだろうか。

 昨年起きた、、京アニの放火事件も、結局は、犯人にとってだけの不都合な現実が、彼にとって、どうしても受け入れがたい事実で、それが、多くの人の命を奪うという結果に至ったのだ。

 とにかく、そんな、自らにとって、不都合な人間を、許すことができなくなったんだ。そして、皆が「前ならえ」であってほしいと、そんな支配的な感情を自然と抱いてしまう構造が、この社会では、出来上がっているのではないか。

 

 何もしていなくとも、安心できてしまう環境下に置かれた人間は、次に、非常にクリアが困難なゲームを好むようになった。人生というゲームを、非常にクリアが困難な状態なることを好むようになった。

 その主要な現れが、「徹底的に、叩きのめし、存在を抹消させる」動きだ。以前、ある芸能人でも、SNS上での叩き被害から、命を絶ってしまった。この国では、銃を保持すれば、法によって処罰される。しかし、言葉という銃を保持していても、処罰されないのだ。加えて、言葉という名の銃は、非常に強力で、時間をかけゆっくりと、人を抹消させるのだ。「罪に問われない」を裏目に取って、(もうはっきりと言って仕舞えば)殺人に及ぶのだ。それも多人数で。

 私の価値観であるため、共感を得ないこともあるだろうが、「芸能人の不倫・脱税・その他スキャンダル」なんて、私にとってはクソどうでもいい。

 おそらく、これは非常に逆説的であるのだが、叩く人たちもまた、正直なところ、これらに対して、無関係であり、クソどうでもいいはずなのだ。

 それでも、叩かずにいられない「ニセのヒーロー」演じ切っているのだ。そうでもしていないと、求めるものがない人間は、生きている意味を再確認できないのだろうか。

 

 とにかく、この叩き文化は、人生というゲームを非常に難しくさせていると、私は指摘したい。なにかアクションを起こせば、叩く。叩かれたくない人々は、大衆の陰で、大人しく生きることで、大衆は、空疎な「安心感」を得る。 

 残念ながら、これが現実ではないか?

 

 このゲームのクリアが難しい要因は、「一回性」という貴重さに指摘が可能であると、私は考える。

 一回限りのものに対して、私たちは、良くも悪くも、価値を見出す。本日限りのセール、毎年あるときだけ見られる絶景、などなど、一回限りは、多くの場合では、人々に感動を与えてくれはする。

 ただ、もし、人生で、活躍できる場が一回限りだったとしたら、どうだろうか。人間は、リスク回避的であるから、多くの人々は、活躍の場に現れようとしなくなる。なぜなら、叩かれて、存在消されて、実質的に、死を迎える。(死ということに対する意識の低下についても指摘したいけれど、、、)

 

 ここで、大学受験と、学歴社会を例に挙げてみたい。

 大学受験は、おおよそ18、19歳の人々が、一度に受験し、それぞれ学力の差によって、入学できる学校が振り分けられるのは、いうまでもない。つまり、そこには、再受験など例外を除いて、一回性がある。

 その一回性に私たちは、価値を見出し、「学歴は信頼の〜」みたいな主張がなされている。そこまではうなづけるものの、

 インターネット上で近年よく見かける「学歴煽り」の風潮については、許しがたい部分がある。いつまでも、人生様々ある挑戦のなかの一つだけを切り取り、いつまでも18、19の一回性ゲームにすがり続ける人々の姿は、非常に滑稽である。一回限りは、ただ感動を生むだけでいいのだ。その一回限りに、チャンスが回ってこなかった人々を、永遠に攻め続け、消していく姿は、私は、許せない。そこには、将来性が全くないのだ。

 

 「人生は一度きり」こんな言葉に、希望を持たされることもしばしばあるものの、一度きりに殺された人がいること、ここで指摘したい。換言するならば、その人に対して、なんら次の期待を寄せることができるような、隣人を持つことができる人が、いない社会が今・現実なのだ。一度の失敗で、殺される。この恐怖に怯え、今日も私たちは生きているのかもしれない。

 

 幼い頃、お世話になった、スーパーマリオは、はじめからであっても、マリオ×5人という保証があって、ゲームはスタートし、何度も、クッパと対戦できる機会を得られた。クッパに一度負けても、何度も城に入城することはできた。

 また、ポケモンであっても、挑戦して戦いに負け、「〇〇は目のまえがまっくらになった...」としても、故郷に帰れば、お母さんが、慰めの言葉をかけ、また、トレーナーとの戦いの後で負けたとしても、「またまっているぞ」と、敗者に希望を託したではないですか。

 

 なぜ、それができなくなった?

 命は、残念ながら、×1です。しかし、人生×∞を実現させることは、できるのです。誰も攻略できないゲームは楽しいか?仮に、攻略者が出てきたとしても、誰の喜びに変わるのか?

 今一度、立ち止まり、このような、皆一人一人が弱っている社会なのだから、考え直さなくてはなりません。

 

 

 

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