たそがれダイアリー

男子大学生の雑記帳 note⇨(https://note.com/tasogarete)

4-7 チャイムが鳴らない日々をどう生きるか。

 切ない

 「悲しさ・寂しさなどで、胸が締めつけられるような気持だ。

 儚い

 「頼みにできる確かなところがない。淡くて消えやすい。無常だ。

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 「切り捨てた何かで今があるなら〜」

 あいみょんの歌詞が頭から離れない。「切り捨てた何か」がある人は、何かの選択をした人である。

 『人は、日常多くの場面で、トレード・オフに直面し、合理的に判断をする。』

 (ミクロ)経済学の教科書は、ほとんど多くの教科書が、初めにこの議論を始める。どちらともに、同時になしえないことがある状態が、トレード・オフである。

 『そのトレード・オフに迫られると、合理的な人は、「機会費用」を見分け、判断を下す。』

 経済学を学ぶと、初めに覚えさせられるのが、この「機会費用」ではないだろうか。

 そう、この機会費用こそが、「切り捨てた何か」なのだ。

 例として、経済学で労働市場を考察する際に、まず、「人は、労働と余暇のトレード・オフに直面している」と、記述がなされている。

 つまり、今日頑張ってアルバイトに行き、稼ぐことと、友達と遊びに行くことは同時に行うことができない。

 そのなかで、私たちは無意識ながらにも、「切り捨てる何か」を考え、合理的(本当か?)判断を下す。

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 『世界がひとつになるまで

 YouTubeで、「小学校 音楽」と検索していた。

 小学校の音楽の授業で歌う曲はどれも、好きだった記憶がある。テレビやラジオでも滅多に聞くことのない曲ばかりだったようにも感じられる。

 『スマイル・アゲイン』、『すてきな友達』、『未来への賛歌』、『パフ』、『まっかな秋』、『ビリーブ』、『tomorrow』、『U & I』、、、など

 それぞれの学校ごとで扱う曲目に差はあるだろうが、どれも好きだ。「ぼくらはともだち!なかよくしよう!あしたもわらっていこう!」みたいな歌詞が目立ち、少し恥ずかしくなってしまうのだが、「ココ」が落ち着いてしまう。

 決して小学校の思い出がよかったとか、そういったことでもないのだが、幸せになりたいのなら、小学校に答えが眠っているのではないかと最近本気で考えている。

 大人こそ、例えば犯罪を犯した人は、刑務所ではなく、小学校再入学にしたほうが、よっぽど心が浄化されて出てきそうな気がしてしまう。

 会社で、「朝の音楽」とか言って、皆で歌ってから勤務したら、営業成績伸びそうな気もしている(まあこのご時世「宗教くさい〜」とか言われて終わるだけなのだろうけどね)

 今だからこそ、小学校の授業を真面目に受けたいと思ってしまう。

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 『そのままの君でいて』(岡本真夜

 記憶を音楽で蘇らせることはよくあることかもしれない。それこそ、小学校の合唱で歌った曲、お昼の放送で流れていた曲、アルバイト先の店内BGMで聴いた曲など、、、、

 aiko三国駅』を聴くと、なぜだか3時間授業で早めにおうちに帰り、そのまま公園に遊びに行くときの「ワクワク」感と、17時で帰らなくていけなくなるあの頃の「さびしさ」が蘇る。

 aiko『予告』を聴くと、高校三年生のセンター試験前の「The絶望感」を蘇らせ、あの頃の自分と対話を試みることとなる。

 岡本真夜そのままの君でいて』は、どうやら、大学2年生を思い出させる曲になりそうである。

 今年は、(多くの皆がそうであるが)「ひとりぼっち」であることが多かったが、私にとっては、(別に何もこわくない)「ひとりぼっち」であった。

 理由は簡単で、以前に嫌と言うほど「ひとりぼっち」を経験しているからだ。

 だからこそいえる、

 「私たちは、チャイムが鳴らず、リコーダーの音が聞こえない日々に、慣れてしまってはならないのだ。」

 以前の多くの「無駄」に気が付いたとしても、切り捨ててもいい「無駄」と、切り捨ててはならない「無駄」がある。

 社会は、合理的を求めても、それに抗う力を潜在的に持ち合わせていて欲しい。

 無駄を許せなくなるその心は、狭い世界へと招待を受けることになる。

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 キンコンカンコンに支配されて、

 キンコンカンコンに戻りたくなる。

 

 生まれてこの方「オギャー」のチャイムはなったままで、終わりのチャイムは聞くことがないのだろう。

 

 ボーッと手をつながれ、ずっと地面のタイルの規則性を見出しながら、幼稚園に向かい

 黄色い地下鉄に乗るときだけ嬉しくなって

 キンコンカンコン生活が始まって

 美味しくない牛乳を我慢して

 興味もないゲームの話には耳を傾けず

 どこか変なやつだと馬鹿にされながら

 キンコンカンコンは守りながら

 マニュアル通りで

 黄色い帽子に背中にまっくろくろすけ

 ちっとも泣きもせず6年間終え

 桜並木と緑色の似合わないネクタイ

 赤い電車に心を寄せて

 少しは明るくなって

 キンコンカンコン守り続けて

 今度は泣きながら6年終えていった

 キンコンカンコン一年聞かずに

 キンコンカンコン真っ暗な道

 誰もチャイムを鳴らしてくれずに

 誰かを探し続けた

 また下を向きながら、地面のタイルを見つめる

 気がついたら

 またチャイムが鳴っていた

 次のチャイムはどこか頼りなかった

 青い看板を掲げたお店にただ一人

 鳴り止まないチャイムに怯えつつ

 あの頃のチャイムを求めてしまう

 それでいてあのチャイムがもう鳴らないことをわかっていて

 次は自分でチャイムを鳴らさないといけなくなった

 次は誰か、大切な誰かのために

 チャイムを鳴らせるようになりたい

 そんなもんだろ、

 

 チャイムがならない日々であっても、

 リコーダーの音色が聞こえてこなくとも。

 

 

4-6 「一回ミスったらGAMEOVER」の社会で...だれが生きづらくさせた?

 なぜ?まさか?と、そんな人でも命を自ら絶っていく、そんな社会だ。

 一見、日々を謳歌していると思われるような人でも、心を叩くと悲しい音がする。そんな人間で溢れかえった社会なのかもしれない。

 1日三食ご飯を食べることができて、四六時中灯が灯り、水に恵まれて、容易に会いたい人に会えて、、、そんな恵まれた社会なのにもかかわらず、どうして、そんなにも生きづらい?

 

 ご飯が食べたくて、食料を探し求めに行く必要もない。水が飲みたくて、川までいく必要もない。会いたい人を探し続ける必要もない。

 そんな社会で生きる私たちは、次に何を求めて生きているのだろうか。もう、何も求めるものなんてないじゃないか。そう、もう私たちはこれ以上求めるものはないのだ。私はそう断言したい。そして、このことに、多くの人が、無意識にも気がついてしまっているのだ。

 ウイルスにも勝てない、水害にも勝てない、地震にも勝てない、それが私たちなのだ。歴史の上でも、私たちは、そんな自然を相手に戦ったことはないから、つまり私たちは、自然に降伏していると言ってもいいであろう。

 だからこそ、私たちは、謙虚に、もう求めるものはないのだから、日々ご飯が食べられて、明かりが灯り、好きな人がそばにいる、そんな生活をこんなにも素晴らしい生活を、感謝して生きているだけでいいのだ。加えて、そんな生活を、すべての人が享受できることを、願うだけなのだ。

 

 求めるものがなくなった、私たちは、恐ろしい生命体に変容しようとしている。

 求めるものがなくなった今、私たちは、隣人を許すことができなくなった。

 自らにとって、不都合な現実を突きつけられることが、もはや生きることを表していたのにもかかわらず、それが今の世の中で起きることが、非常に稀なのだ。だからこそ、自分にとって、、不都合な現実を突き付けたり、自らの価値観に合わなかったり、周りと違うことをする人々が、許せなくなった。

 もし明日、電力会社が休みたいと、電気が通らなくなったら?

 もし明日、お母さんが、ご飯を作ってくれなかったら?

 非常に、残念ではあるが、今の世の中では、かなりの人が、電力会社をSNS叩き上げたり、母親を殺傷する事件だとか、、、予想できてしまうのは、私だけだろうか。

 昨年起きた、、京アニの放火事件も、結局は、犯人にとってだけの不都合な現実が、彼にとって、どうしても受け入れがたい事実で、それが、多くの人の命を奪うという結果に至ったのだ。

 とにかく、そんな、自らにとって、不都合な人間を、許すことができなくなったんだ。そして、皆が「前ならえ」であってほしいと、そんな支配的な感情を自然と抱いてしまう構造が、この社会では、出来上がっているのではないか。

 

 何もしていなくとも、安心できてしまう環境下に置かれた人間は、次に、非常にクリアが困難なゲームを好むようになった。人生というゲームを、非常にクリアが困難な状態なることを好むようになった。

 その主要な現れが、「徹底的に、叩きのめし、存在を抹消させる」動きだ。以前、ある芸能人でも、SNS上での叩き被害から、命を絶ってしまった。この国では、銃を保持すれば、法によって処罰される。しかし、言葉という銃を保持していても、処罰されないのだ。加えて、言葉という名の銃は、非常に強力で、時間をかけゆっくりと、人を抹消させるのだ。「罪に問われない」を裏目に取って、(もうはっきりと言って仕舞えば)殺人に及ぶのだ。それも多人数で。

 私の価値観であるため、共感を得ないこともあるだろうが、「芸能人の不倫・脱税・その他スキャンダル」なんて、私にとってはクソどうでもいい。

 おそらく、これは非常に逆説的であるのだが、叩く人たちもまた、正直なところ、これらに対して、無関係であり、クソどうでもいいはずなのだ。

 それでも、叩かずにいられない「ニセのヒーロー」演じ切っているのだ。そうでもしていないと、求めるものがない人間は、生きている意味を再確認できないのだろうか。

 

 とにかく、この叩き文化は、人生というゲームを非常に難しくさせていると、私は指摘したい。なにかアクションを起こせば、叩く。叩かれたくない人々は、大衆の陰で、大人しく生きることで、大衆は、空疎な「安心感」を得る。 

 残念ながら、これが現実ではないか?

 

 このゲームのクリアが難しい要因は、「一回性」という貴重さに指摘が可能であると、私は考える。

 一回限りのものに対して、私たちは、良くも悪くも、価値を見出す。本日限りのセール、毎年あるときだけ見られる絶景、などなど、一回限りは、多くの場合では、人々に感動を与えてくれはする。

 ただ、もし、人生で、活躍できる場が一回限りだったとしたら、どうだろうか。人間は、リスク回避的であるから、多くの人々は、活躍の場に現れようとしなくなる。なぜなら、叩かれて、存在消されて、実質的に、死を迎える。(死ということに対する意識の低下についても指摘したいけれど、、、)

 

 ここで、大学受験と、学歴社会を例に挙げてみたい。

 大学受験は、おおよそ18、19歳の人々が、一度に受験し、それぞれ学力の差によって、入学できる学校が振り分けられるのは、いうまでもない。つまり、そこには、再受験など例外を除いて、一回性がある。

 その一回性に私たちは、価値を見出し、「学歴は信頼の〜」みたいな主張がなされている。そこまではうなづけるものの、

 インターネット上で近年よく見かける「学歴煽り」の風潮については、許しがたい部分がある。いつまでも、人生様々ある挑戦のなかの一つだけを切り取り、いつまでも18、19の一回性ゲームにすがり続ける人々の姿は、非常に滑稽である。一回限りは、ただ感動を生むだけでいいのだ。その一回限りに、チャンスが回ってこなかった人々を、永遠に攻め続け、消していく姿は、私は、許せない。そこには、将来性が全くないのだ。

 

 「人生は一度きり」こんな言葉に、希望を持たされることもしばしばあるものの、一度きりに殺された人がいること、ここで指摘したい。換言するならば、その人に対して、なんら次の期待を寄せることができるような、隣人を持つことができる人が、いない社会が今・現実なのだ。一度の失敗で、殺される。この恐怖に怯え、今日も私たちは生きているのかもしれない。

 

 幼い頃、お世話になった、スーパーマリオは、はじめからであっても、マリオ×5人という保証があって、ゲームはスタートし、何度も、クッパと対戦できる機会を得られた。クッパに一度負けても、何度も城に入城することはできた。

 また、ポケモンであっても、挑戦して戦いに負け、「〇〇は目のまえがまっくらになった...」としても、故郷に帰れば、お母さんが、慰めの言葉をかけ、また、トレーナーとの戦いの後で負けたとしても、「またまっているぞ」と、敗者に希望を託したではないですか。

 

 なぜ、それができなくなった?

 命は、残念ながら、×1です。しかし、人生×∞を実現させることは、できるのです。誰も攻略できないゲームは楽しいか?仮に、攻略者が出てきたとしても、誰の喜びに変わるのか?

 今一度、立ち止まり、このような、皆一人一人が弱っている社会なのだから、考え直さなくてはなりません。

 

 

 

お読みいただき、ありがとうございました。コメント等是非お寄せくださいませ。

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4-5 体が「学校」という場を欲していて。

 「期限:明日23:59

 今現在、学生の多くは、オンラインで学校の授業を受講している。対面で授業を行えないということで、課題の量が尋常じゃない。毎日、こんな赤いランプが点灯中。

 

 正直言って、もう疲れた。少し、大学という存在と距離を置くことにした。通学時は、一回90分間で完結していたが、オンラインでは、一日中頭の中が学校でいっぱいになる。

 決して、課題提出をやめて仕舞えばいいという主張ではなく、一旦距離をおかなければ、狂ってしまうのではないかという学生の抱く危機感をここで記したいだけである。

 

 いくつかやるべき課題があったけれど、「もう、きょうはいいや。」と割り切った。

 そして、部屋の倉庫を物色していたところ、久しぶりに、おりがみケースが出てきた。このおりがみケース、小学3年生のころに購入してから、まだ息していたんだな。とにかく懐かしすぎた。そして、、、

 今日は、課題をサボって、おりがみすることにした。

 

 

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鶴ばっかりだけどね。

♪今日のBGM❶♪『春はまだか』ー浜田雅功
 

 「おりがみは、心を落ち着かせる。」今日、はじめてこれに気がついた。落ち着いて、両指を注意深く動かすその動作、なぜだろう表現が正しいかわからないけれど、「懐かしい」新鮮さがそこにはあった。

 わたしの人差し指と、親指は踊っていた。嬉しそうだった。

 そうだよな、思い返せば、昨今の私たちが触れるものなんて、汚い画面に、汚いキーボードに、、、。指がかわいそうだ。もっと刺激のあるものを指は求めていたんだ。

 そして、指先の動きと、私の脳が一体感を持ったこの感覚が、懐かしすぎた。なぜだ。わかり切っている、スマホとPCばっかり触っているからだ。私の指先の動きは、私の体へではなく、コンピュータに伝わっていくんだもんな。なんかごめんな。指先よ。

 

♪今日のBGM❷♪『青春国道202』ーKAN

 

 さきほど記述した、おりがみケースは、小学3年生の頃校内で流行していた、おりがみブームにあわせて、お母さんに買ってもらった覚えがある。

 このおりがみブームは、女の子たちの間から始まった。10分休憩でも、はたまた授業中にでもおりがみと女の子たちは奮闘していた。それに男子が乗っかった。初めのうちは、女の子に折り方を教わったりして、それなりクラスの仲が深まっていた。しかし、バカな男子達は、おりがみブームを変えていったのだ。

 「キラキラおりがみを持つ奴がさいきょう」ーーーーそんなブームにいつの日か変わっていった。(キラキラ折り紙とは、上の写真の左側のようなおりがみのこと。すこし高め。)

 本当に、思い返せば、下らないが、微笑ましい。結局、おりがみコレクターとなった男子たちの家には、おりがみの在庫が大量発生することになった。結局、捨てることも難しく、大学生になってもなお家に残っていたのだ。

 

♪今日のBGM❸♪『My body keeps changing my mind』ーカレン・カーペンター

 

 おりがみブームもそうだが、とにもかくにも、小学校ってよかったよな。って課題をサボりながら考えていた。

 いや違う、便利じゃなかったあの頃は、よかったよなって。考えた。

 とりあえず、ブログで小学生の思い出を、覚えている限りで、回想することにした。

 

 1、まず思い返してみると、分団登校って幸せだった。

  地域によって様々だと考えられるが、防犯等を目的として、私の学区では、分団登校をしていた。これが、とにかくいい思い出なのだ。1年生で初めての登校日には、6年生の分団長の先輩が、玄関まで迎えにきてくれた。また、分団登校だから、遅刻者もいて、「おきろ〜」ってみんなで朝からマンションを駆け回って、呼びに行ったのは楽しかったな。今では考えられない。そもそもオートロックとかなんとかで、マンションには入れないし。

 2、木登り・崖登り

  学校が終われば、仲の良い友達と、団地内で遊んでいた。木登り・崖登りは、本当に上達した。怪我もした。トゲのある木を触ったり、崖を触ったりと、指先は刺激を受けまくっていたよな。

 

♪今日のBGM❹♪『NIGHT WALKER』ー松任谷由実

 

 3、欠席の子に連絡帳を届けに、、、

  これも心がなんだか温かくなる思い出だ。欠席連絡が、連絡帳による手書きっていうのが推せる。そして、その連絡帳を担任の先生から預かり、おうちまで届けに行く。つまり、学区内であれば、「〇〇くん/ちゃん」の家の場所は皆知っていたし、なんなら電話番号まで覚えていたし、お母さんの顔も覚えていたし、、今じゃ考えられないけれど、とにかく私はこの頃に社会が戻ってほしいと願っている。

 連絡帳を届けに行くと、その子のお母さんから、お菓子をもらえたり、女の子なら、次の日ありがとうって感謝してもらえるし、それを狙っていた男子はたくさんいた。

 4、自動販売機のポイントカード

  DYDOの自販機ってポイントカードが発券されるの、知っていますか笑?

  それはともかくとして、あの頃の私が接する機械なんてのは、近くの自動販売機しかなかった。帰り道に、ともだちと、発券されて取り忘れているポイントカード(新規発行カードで必ず発行されるからわるいことしているわけではないよ笑)がないかチェックするのが日課だった。そして、取り忘れポイントカードをコレクションするのだ。絶対必要ないし、ジュース一本すら購入できない財力のくせして、カードだけ集めてどうするのだか。いやでも、そんな必要ないものにも、面白さを見出して、自らの力で楽しさをうみだそうとするその力、大切なんだ。今の私にはできていない。つまり、小学生に負けていると言ってもいい。

 5、恋愛、ラブレター

  相合傘が書かれ、付き合っていることをクラス中でからかわれたり、あの頃は迷惑でしかなかっただろうけれど、今思い返してみれば、最高じゃないかあ。月一くらいで、こっそりと「おどうぐばこ」に届く手紙。これは一生ものだ。永久保存だ。

 

 

♪今日のBGM❺♪『夕暮れ沿い』ーOfficial髭男dism

  結局何を伝えたいのか。

 便利じゃないあの頃は、自ら刺激を求め、自ら創造し、自らの時間を、自らで楽しもうと必死だった。

 何もかも便利になった今、そしてこの感染症が流行する昨今においては、便利なツールに恩恵を受けていることは否めない。ただ、あまりにも便利すぎて、人間辞めかけていた。危ない。

 

♪今日のBGM❻♪『三国駅』ーaiko

 

 今は、学校という場を思い返すいい期間かもしれない。ただ授業をして、いい点とって、おわる場ではないことを痛感した。様々な雑音が入り混じり、つねにライブの状況が保たれ、相互間で理解と緊張感があって、学校だ。良い人も、悪い人もいて、うまく調整しあって、コミュニティーを形成していく場でもあった。このままだと、ただ課題に応答する場としての機能しかもたないことになってしまう。真面目に期限内に提出する人にだけが、個人的に評価という形で良い思いをするだけの場に変容することに危機感を持ちたい。

 かと言って、まだ、気が緩めない中で、これからまたもとの形に戻すのは難しい。ただ、少し体を休めて、距離を置く必要性は大いにあるだろう。そして、暇だからと言って、SNS、ネットに依存する体になるのは、私はやめにしたい。あまりにも刺激がない毎日を送ることとなってしまう。人間の作る楽しさの限界を容易に超えて、SNSや、ネットは楽しさを与えてくれる。しかし、誰かに作ってもらった楽しさで生きるのは、つまらないなって気付いた。完全にそいうった楽しみを遮断することは、また閉鎖的でもあるから、避けるべきではあるけれどね。

 おっと、課題の期限が迫ってきたようだ。私にとっての楽しみの一つである、ブログという創作活動を今日はここまでとして、楽しんで、課題に取り組むとするか。

 

 

お読みいただきありがとうございました。今日のBGMは私のおすすめ曲です〜。

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4-4 コロナよりも恐ろしい病

 こちらのニュース。

https://www.google.co.jp/amp/s/www.asahi.com/amp/articles/ASN4R3S2SN4NOHGB018.html

 

 テレビをつければ、ウイルスの話題ばかり。そんな中で、気づかれないまま過ぎて行ってしまうのは許せないニュースを紹介します。

 

 事件概要は、サイトの通りです。

 ただ、ただ悲しいだけの事件です。

 

 言うまでもなく、少年らは悪い。しっかりと然るべき罰を受けてほしいです。 

 

 でも、それだけでなく、この事件は今の世の中に蔓延する恐ろしすぎる病を映し出している気が私はしてしまう。

 

《優生思想が垣間見られる》

 この社会では、お金がないと生きていけません。お金を得るには働かなくては(誰かの役に立たなくては)なりません。当たり前ね。

 この社会では、たくさんお金を所持する者、あまりお金を得られない者が存在します。 

 人々は出来るだけお金が得られるような人物になりたいと思うようになる。

 

 ここまではいいでしょう。まぁ、頷ける。

 ここで、自分に聞いてみよう。

 「お金がない人は、存在する価値がないのか?」

 この問いに対して、存在する価値ないって答える方はブラウザバックでお願いしたいですね。よろしくです笑

 

 いや、でも言われないだけで、社会という大きな黒い塊から、「存在価値ないよ」って言われてる気もするんだよな。

 

 被害に遭った男性は、女性とともに「支え合って」、橋の下で、テントの中で、日々を生きていたという。雨の中でも、アルミ缶拾いの仕事へ出かけ、女性を助け、子猫の餌まで調達し、男性なりの毎日を過ごしていた。

 素晴らしすぎる。尊敬する。泣けてくる。こんな自宅待機でスマホと睨めっこしてる私なんかよりも尊い生だ。

 

 家に帰れば、ご飯が出てきて、明かりがあって、大学に通わせてもらって、友人もいて、間違いなく明日も平凡に暮らせるだろうという確信があった少年たちからしたら、この男性の暮らしは想像及ばないのかもしれない。

 石を投げるという行為からは、明らかにこの男性の暮らしを軽蔑していたとしか考えられない。

 なんの苦労もなく(いや、その苦労は誰かが負っているんだけどね)、手にしたその地位からは分からないんだろうね。

 

 でもね、この少年だけじゃないですよ。残念だけど。見て見ぬ振りしていた私たちも同罪かもね。

 全て自己責任で片付けられるだろうか。お金ある人だけ生き残ればいいのか。そんな社会はどこへ向かうのか。なにを目指しているのだろうか。

 

 そのお金、もっと良い使い道あるんじゃない?

 その頭の良さ、もっと良い使い道あるんじゃない?

 その社会的地位、もっと良い使い道あるんじゃない?

 「〇〇さんって、お金はあるけれど、大切なものを持ってないよね。」

 

 

 おうちにいる時間を使って、いま私たちは考え直す時かもしれない。少年らだけの問題じゃないわ。この病、ワクチンはないけれど、確実に効く処方箋はありそう。発症してないかは個人で検査できますね。

 

 

 

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★ブログをはじめて一年経った。これからも宜しくお願い致します。

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 お久しぶりです。タイトルの通り、このブログを開設し、一年が経過しました。今日突然メールが届き、気づきました。

 

 自分の人生の物語を語る場として、まいにち提供していただいているはてなブログさまには感謝しかないです。

 

 変わらずして変わりゆく形を目指して、新たな文章をお届けしたいです。

4-3 現代っ子よ、aikoを聴け。

 こんにちは。しばらく沖縄にお出かけしていました。沖縄と言っても、観光コースではなく、7日間ずっと戦争と平和をテーマとして考え続けていたのです。学生のボランティアとして、沖縄戦と向き合うべく、東京から向かったのです。

 様々な人とお話しすることができた。答えのない問いだからこそ、話していてとても楽しかった。ためになった。話題が話題だからこそ、腹を割ってお話しすることができたんです。

 その中で、「〇〇(筆者)って、視点が他の人と違って、話していて面白いよね。」と言われた。なるほど、そうなのか?そうなのか?(2回目)

 

 自分にとって「平和」とはどのような状態か?

 

「心に余裕があって、他の誰かの幸せを願える状態のこと。」

 

       そんな答えを持ち帰ってきた。

 

_____________________

みんな「いい人」になりたい。

 皆さんは「素直な人」になりたいですか?なりたいって思う人が多いと思う。でも、それはなぜだ?

 なんの隠し事もなく、自分の素のままに生きることになぜ憧れるのか?

 自分自身振り返れば、日々をちょっとずる賢く、戦略立てて生きているような一面もある。それを「腹黒い」の一言で済ませて仕舞えば、それまでなんだけれど。

 そんな話をボランティア最終日の夜にしていたんだよな。いかに腹を割って距離感を縮められたかが伝わるだろう。

 その中で、話していって、自分の中で結論づいたことがあった。それは、どんな生き方であっても、皆「いい人」を目指した生き方をしているんだろうな。ということ。

 「いい人」になりたい。そのための方法がそれぞれ違うだけなんだろう。どちらかといえば、ずる賢く・戦略立てて日々を生きてしまう後者の方は、自分を責め立ててしまう時もあるかもしれないけれど、どれも皆目指している方向が同じと考えたら、少しは気が楽になるのではないだろうか。

 

 宣言します、私は「いい人」になりたい。

 

_____________________

「みんな」ありがとう!は本当か?

 最近、SNSでよく見かけませんか?「みんな」ありがとー!「みんな」大好きー!みたいな投稿。

 別に不自然に思わないならいいんだけれど、自分はなんだか違和感というか、ぎこちなさを覚えるんです。それを投稿している大部分の人たち、つまり、「みんな」大好きー!と言ってたあの子は、明日も明後日も「みんな」に連絡とってご飯行ったりしないじゃないですか。何がぎこちないかって、よくそんなにすぐ「みんな」が好きになれるな、って思うからです。

 

 「いい人」になりたい。おそらくみんな。「みんな」を好きになりたい。そうなんです。

 

 「みんな」大好き。その一言に、投稿者の一抹の不安を垣間見ることは出来ませんか?

 「いい人」を目指すものとしては、極力嫌われたくないし、嫌いたくないんです。

 だから、「みんな」と表現しているんじゃない、?

 「〇〇ちゃん、好きだよ」という投稿は、〇〇ちゃん以外を突き放す投稿になるのかもしれない。

 実際自分自身がその「みんな」に入っていたら、少し嬉しいですよね。「あぁ、感謝してくれているんだー。」程度の喜びなんだけれど。

 

 でも、私はずっと思っていたことをここで記しておきたいんだ。

 「誰か1人を愛せないようなら、みんなは愛せないんだよ。」       

                って。

 まだ世界は平和な状態だとは言えないだろう。だってまだ人類皆みんなを愛せてないもん。もしかすると、インスタに出没する「みんな」だいすき投稿者は、人類の先端をゆく人々なのかも?自分、置いていかれてる??

 でもとにかく、誰か1人が好きになれて、そこから多くの他人を好きになれるんだと思う。この順序は間違ってないと自分で勝手に思ってるんだよ。それはね、、、、。

 

_____________________

青春時代、aikoを聴いて育ったという謎のプライド

 ボランティアから帰ったら、aikoさんがザブスクを解禁していました。即登録ですよね。はい。このブログで何度もお伝えしている通り、私はaikoファンです。そうです。

 aikoさんこれまでの曲414曲すべてが聴けるようになったのだそう。

 私は、ファンとして414曲聴いているけれど、その99.9%はいつもそばにいる「あなた」を題材にした音楽なんですよ。

 私自身、aikoを「ラブソングの女王」とかって称号づけるのは好きじゃない。そもそもラブソングじゃないんよ。「あいのうた」なのよ。わかってほしい、この違い。

 私はそんな「あいのうた」を、中学・高校という大事な時期にずっと聴いていました。すごく昔のアーティストってわけではないけれどさ、aikoを聴いている男子はほとんど学校にいなかったよ。

 でも、そんな青春時代にaikoを聴いていたのは、ちょっぴり自分を誇れる一部分でもあるんです。

 だって、誰か1人を好きになることの苦しみ、楽しみを教えてもらっていたのだから。aikoはずっと、誰か特定の1人を好きになることを題材にしているんです。「世界中のみんながだいすき〜」だなんて歌詞は見たことないよ。なんなら、「世界中敵に回しても、あなたと眠る夢を見ていたい」って歌詞書くからねっ!

 

そんな、1人を大切にすることの大切さに気づかせてくれる、aikoの414曲に、今を生きる「みんな」大好き系の"現代っ子"は、容易にアクセスできるようになったのだ。これは喜ばしい。

 恋愛離れ?おいおい。現代っ子よ、順番が逆だ。aikoを聴いて出直そう。別にさ、恋愛じゃなくたっていいんよ。誰にも譲れないものを見つけるのもいいんだよ。誰にも譲れない人・ものを守る辛さを覚えようよ。現実から逃れちゃダメだ。頑張って「いい人」になりたい。そうなんだよ。そうやって、辛さを覚えていくうちに、いつのまにか「いい人」になれているもんだと思うんよ。どうかね?

 「みんな」を愛せないで、1人で模索して頑張っている人を、「ぼっち」なんて言葉で片付けないで。

 明日も私は、「いい人」を目指して、生きますよ。誰にも譲れない1人・ものを愛して、探して、、、。

 そうしているうちに、心に余裕が生まれて、他の大勢の幸せを願えるんだよ。

 

 

 

 

 最後にこの話のオチ

 自分も、SNSで「みんな」との楽しそうな写真を投稿する、れっきとした大学生。そう、"現代っ子"なんだ。

 自分への戒めのような記事になったな。

 

 

 

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4-2 ドライブはロマンチックに。

 春休みが始まった。大学生の春休みは信じられないほど長く、この先4月の初めまで休みなんだとか。

 いま弟は受験真っ只中。お家の雰囲気は決していいものではなく、そんな中で呑気な大学生の私は、春休みを謳歌しているのだ。

 数日前、サークルの合宿ということで、草津温泉まで行ってきました。ただただ笑って、ただただなんの縛りもなく、数日過ごしていた。そんな日々のなかでこぼれた言葉は、「こんなに自分は楽しんでいていいのだろうか。なんかこの後物凄い困難なことが起きるのではないか。」であった。

 深夜遅くまで起きて、お酒が足りなくなったら、夜の道をみんなで歩いてコンビニへ向かった。その道中、私たちは皆で夜の草津の街で合唱していた。今考えれば、ただの近所迷惑でしかないけれど、この合宿で一番記憶に残っている思い出であるだろう。

 「歌っていいよね。元気になれる。」と誰かが言った。

 ある思い出・ある瞬間 この短い私の20年の生のなかで、音楽は大きな意味をもたらしているように感じている。

 決して、楽しかった思い出だけでなく、夢打ちひしがれた時に「人生こんなものかよ。」って泣き寝入りしながら聴いたあの、歌。好きだったあの子と授業中に合唱した、あの歌。歌だけで、様々な記憶が呼び起こされることは多い。

____________________

 私の父親は音楽が大好き。日曜日とかには、録りためた音楽番組を見漁っている。

 The車社会、愛知県に生まれた私は、小さい頃から車は身近な乗り物であった。連れて行ってもらったあの公園、あのバーベキュー場、、、、小さい頃の思い出には必ず車で行ったなという記憶が残っている。

 私が小さい頃、音楽を知る場は車の中だった。「曲名知らないけれど、知っている」が増えたのは、このおかげだと思う。

 どうやらお父さんは、大のビートルズファンで、全曲CD持っているそうだ。レノンが好きなのか、マッカートニーが好きなのかそれはよくわからないけれど、ビートルズは結構車の中で流れていた記憶はある。でも、お父さんが一番口ずさみながら嬉しそうに、ちょっぴり切なく運転していたのは、徳永英明の曲なのである。

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 『思春期に少年から〜大人に変わる〜』

 なんでこの曲ばかり聴いているのか恥ずかしくて聞いたことはない。ただ、徳永英明「先生」と呼んでいたから、相当なファンなのだろう。

 思春期?なにそれ?そんな時代から耳に残り続けたこの曲。

 ぼんやりとしたこどもだった。よく何を考えているのかわからないこどもだった。

 いま、成人したからこそ、あの頃の言葉にできない想いを理解できることが多いものだ。

 人が抱える深い悲しみにも少しは気づけるようになった。人が抱える触れて欲しくない過去があることも理解できるようになった。

 その人が聴く音楽を介して、その人のこれまでの生を感じる。

 あの日あの時、父親の背中を見つめ、チャイルドシートから聴いていた徳永英明の声。

 今やっと繋がるものがあるのだ。そして、子は一生親に追いつかないことも再確認する。

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 東京に引っ越し、父親の好きだった車を手放すことになった時、母親によるとお父さんは結構悲しんでいたのだと聞いた。

 ドライブと音楽で私が学ばされたことは多い。この学んだことを、言葉にするのは難しい。でも、ドライブしながら少し窓を開け、入ってくる心地よい風とともに聞こえて来る、ちょっぴり切ないうた。。。

 この瞬間、「私はどう生き、どう死ぬのか。」この問いに対しての、答えが出るのだ。その答えは胸の内にそっと閉じ込めておこう。ドライブしてくれたお父さんへの感謝と共に。ドライブはドラマチック。

 

 

 

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by ホンダアクセス