たそがれダイアリー

京急とaikoと柴田淳とZARDとちょっとのエッセイ

あるべき姿を押し付けられるから、生きてゆくのが辛く感じる

 「私何のために生きているのだろう」

 

 こう発言したこと、あるいはこの様な発言を耳にしたことが、きっとあると思う。 

 この様な発言は最近になって増えていると感じている方が多いと思う。

 今回は何故、その様な発言が増えているのか、私なりの考えをここで示せたらと思う。

 

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あなたは、〇〇の人だから

 今は一人一人に番号が与えられる時代。まるでロボットみたい。自分は、そう感じている。

 この様に、学校や職場などで、一人一人に何かしらの「称号」が与えられることが多くなったと思う。

 一人一人の役割があらかじめ決定していれば、それを扱う人にとってはとても効率が良い。自分にとっても称号が決まってしまえば、他を考える必要がなくていいかもしれない。

 

 それにしても、至る所で自分を演じなくてはならないことが多くなったと思う。学校ではもちろん学生を演じ、職場では決まりきった仕事を演じる。これは前からあることだと思うけれど...

 

 例えば、友達関係でも演じなくてはならないことが多くなったはず。

 今では一人一人アカウントがあり、そこに「乃木坂46が好きです!」とか、「教員免許取得目指しています!」とか、書いている(書かされているのかも)一度、「乃木坂46が好き!」と書けば、とにかく乃木坂ツイートをする。周りからは「乃木オタ」認定が下る。一度認定が下りれば、もう「欅坂」への変更は許されないかのような扱いを受けそう。(例示が難しいけれど...アイドルわからんし。欅への変更は可能?)

 

 自分も同じで、京急が好きなのはこれからも変わらないはずだが、突然東急線が好き!とは言い難い。周りから「京急好き」との認定が下されているために、転向は許されていないかのような状態。でも、自分は京急好きで変わらないので、辛さは感じない。

 

 やはり、この様に、私たちは「誰か」に対して、あるべき姿を(知らないうちに)押し付けてしまうことが増えたのではないだろうか。それは扱いやすいから?でも、自分でもわかる。昨日までaikoが好きと言っていたあの子が、明日から あいみょん に転向していたら悲しい。あいみょん を最近聴いているだなんて、aikoには言えない。

 「アイツはアレができる、アレが好き」と押し付けてしまえば、楽。他を考える必要がない。扱いやすい。手っ取り早い。だから押し付ける、知らない間に。いや、知っている?

 

 

 効率、容量の良さばかり求めやがって。

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何にでもなれることが 生きることの楽しさ

何にでもなれないことが辛さ

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 自由に何にでもなりたい。猫みたいに。

 

 本当は、皆何にでもなれるはず。

 そもそも、「何の"ため"に...」という問いが間違いだと思う。画家になることが予定されて生まれてくる人もいないし、野球選手になることが予定されて生まれてくる人もいない。すべて偶然の巡り合わせでそうなっていると思う。

 あと、「将来の夢は?」と聞いてくる大人に対して「いや、特に...」と答えることの何が悪い?これからの巡り合わせで将来は決まってゆくから。やりたいことありすぎて、パッとしなくて「いや、特に...」。

 

 この記事を書く自分も、読んで下さっているあなたも、あるべき姿なんてないはず。こうあるべき予定を組むことはいいと思うけれど、道中予定が崩れてもいい。ギタリストになると豪語していたにもかかわらず、バイオリニストになってもいい。そんな小さな変更でも、大きな変更でもいい。

 そうでないと、やっていけない!死ぬまで「乃木オタ」やっていけますか?(失礼)いや、自分も!死ぬまでaikoジャンキーか?...。どうだろ。誰かのために生きているのではないさ。

 

 だから、周りの誰かが、突然予定を変更したとしても、その考えを尊重してあげることが大切だと思う。見えない圧力で、あるべき姿を固定しない様にしたい。死ぬ間際に「これがあるべき姿だったのか」。それでいい。

 

 

コメントお待ちしています。

Twitter @tasogarete_1122

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